「どーせ死ぬ」と考える

「死にたい」とか「消えたい」とか頭によぎることもあるものだ。しかし本格的に自殺するほどでもない。死ぬのは不安だし、他人に迷惑をかけるのもどうかと思ったり。

 

今までは、「自殺するくらいなら、死んだ気になって何もかも捨てて頑張れば何か成し遂げよう!」と考えることにしていた。でもなあ、死んだ気になって頑張るなんてなかなかできません。

 

そこで、「死にたい」と頭に浮かんだ時は「どーせ死ぬ」と思うことにした。わざわざ自殺しないでも、自殺する行動力がなくても、寿命が来て死ぬのだ。生き物とは便利なものだ。自然の摂理はかつて生きた人々を誰一人見逃すことなく皆殺しにしてきたのだ。

 

自分は「どーせ死ぬ」と思えばいい。嫌なこと、苦しいことをなんとかしようと頑張らなくてもいい。早く死なないかなぁと思ってればいい。今日すら余生だ。

 

どーせ死ぬのは自分だけではない。以前迷惑をかけた人、苦々しく思っている人、電車に乗っている全ての人も、どーせ死ぬのだ。彼らもまた棺桶に片足を突っ込んでいるどころか、棺桶にすっぽり入れられ蓋をされ地面に埋められて土もかけられ墓標すら立っている。もはや死んでいるかは誤差の範囲だ。

 

どーせ死ぬ「ほぼ死人」に対して何をしても自責の念を持たなくていい。

 

上司や面接官が嫌ならば、彼らの頭に赤い数字を浮かべてみる。50代なら、30。彼はあと30年で死ぬので気にしなくていい。30×365×24×60×60秒後に死にます。

 

そして自分もどーせ死ぬので気楽だ。