自分の適切な評価

ぼくの一番苦手なことは、自分の適切な評価だ。

 

自分は賢いのか?馬鹿なのか?と問うてしまったりする。その疑問は無意味だし、その答えはどちらにせよ思考停止に過ぎない。

 

悪いことに、そういった疑問を持つ時にはすでに答えは決まっていて、自己評価というプロセスを行おうとすらしていないのだ。

 

適切な自己評価は、自分への過信ではないし、自分への不信でもない。

 

適切な評価とは、正に適切な評価なのだ。±0、簡単なことだ。

 

ぼくはよく夢想する。甚だしい妄想の中でぼくはすぐに自信過剰になって、正しい努力をするために頭を働かせることをやめてしまう。

 

一方で、謙虚と卑下を区別できずに、自分は馬鹿だと思い込もうとする強いクセがある。自分の評価が非現実的なまでに、とにかく低いことが良いことだと信じている節がある。

 

客観的にみて、ぼくは賢い。そこそこに。そしてまたぼくは、ずば抜けて賢くはない。色々な指標から、それは明らかだと自分に言い聞かせる。前者も、後者も。

 

ぼくは自分を適切に評価できない。

 

自分は天才だという思い込みも、自分は馬鹿だという思い込みも、してはいけない。

 

そこそこに賢いということと、自分は自己評価が死ぬほど下手だということを頭に入れて、その時その時の自己評価を疑い続け、適切な自分評価を探りつづけるのが最善のやり方だ。

 

身の程を知る、身の丈に合った、といった言葉は、どちらかというと否定的に用いられる。ぼくも自分を卑下する時に頭に浮かべる言葉だ。

 

しかし、服は長すぎてもダメなのはもちろんのこと、短すぎても具合が悪い。体が大きくなれば、服だって大きいものに仕立てなくてはならない。

 

小さすぎず大きすぎない、ピッタリとした服を着て初めて、自由にそして俊敏に動き回れるんだ、と思った。